詩(short poems)


詠むの苦手だけど読みたい私は‥詩人・猫守( ̄▽ ̄;)

詩への私の想いを載せます。
人が詠んだ俳句・一行詩・短詩に想ったことも書きます。
有季・無季の一行詩や、数行のポエムも詠みたいと‥想っています。

人生論ノート/主体

勝って兜の緒を締めよという格言がある。ちょっと油断しても命を奪われる戦国時代には大いに意味があった言葉だし、言わんとするところは分るけど、今はもっと大事にすべき言葉がある気がする。そういうことで私はあまり好きになれない。太平洋戦争へ突入して日本は言論弾圧がますます厳しくなったという岸見一郎教授の見解は尤もとして、それは戦国時代に戻ることを受け入れるって意味?戦国時代へ戻らないようにしようって意味?世界が戦国時代だからって、日本も戦国時代へ戻るべきなのか?

太平洋戦争当時の日本の政治は厳しいカジ取りを迫られていた。その局面の打開策として日本の政治は戦国時代に戻ることを可とした。謀略あり、闇討ちあり、下剋上あり‥戦国時代に日本国民は一戦一戦の経過を聴きながら嬉々として過ごした。太平洋戦争当時の日本がマサにそうだったよ。勝ってると思うときはイケイケで、戦況が危うくなったら軍部や政治を誹謗しだす。そんな日本人だったろ?美味いモノを頬張ってればご満悦、石ころが混じってたら憤慨する‥お客様なら怒っても仕方ない‥。

これがお客様でなくて従業員でも仕方ないと私は思う。仮に病院の受付の態度が劣悪でも「ああ、この子は奴隷だ」って受けとめる。自由人の私が奴隷を怒っても仕方ないだろ?主人に隷従するしかない受付を怒鳴りつける意味が自由人にあるだろうか?飼い犬と喧嘩して口汚く罵ってあなたはご満悦になれますか?もしそうならあなたは飼い犬と同格だよね?私は奴隷と同格に堕ちるのは厭なんです。戦国時代であれば従業員は全てトップに隷従しているのだから、責任をとるべきはトップでしょう?

自由人の私は責任をとる人です。奴隷は結果に振回されて嘆いたり好い気になったりしてたら好いのです。飼い犬も奴隷も飼い主の機嫌が好ければオヤツを貰える。飼い主が不遇のときに不平をぶうぶう垂らす飼い犬や奴隷をあなただって飼いたくないでしょう?そんな不埒な犬どもは‥あなたは保健所に引き渡さないか?だから、お客のままが好いか?自由人が好いか?客体が好いか、主体が好いかと言いなおしてもいい。こんなことを想う私は美しい世界(客体)を愛する自由人。あなたはいかが?


人生論ノート/難局

己の流儀が受入れられない局面にあって三木清はどう対処すべきだったのか?私ならどう対処するか?あなたなら折れるか?それとも突っぱねるか?理屈も綺麗ごとも通じない難局に立たされた人に対して傍からオイソレと口出しできるものではないだろう?人生論ノートの意味は結局そういうことだろう?大きな犠牲を払ってその局面は乗越えても、その大きな犠牲の代償をどう払えば好いか?仮にだが‥反逆者として死ぬべきか?それとも犯罪者として死ぬべきか?この二つに一つを選ぶ難局‥どう越える?

私に「あなたが要らんこと言ったのじゃない?」と声を掛けた人は大勢いた。物言えば唇寒し秋の風(芭蕉)ってフレーズがあるよね。芭蕉の真意は別にして、このフレーズは一人歩きしているみたい。黙ってたら好いって思いたい日本人が殆んどじゃないかな。だから私に声を掛けた人たちは私の身を案じて優しい気持ちからアドバイスしてくれた訳で、巻込まれないでその場をやり過ごす対処法の一つではあると思う。見ていても見てない振りして通りすぎる人の多いこと。そんなことはないですか?

その場のことは無かったことにしてやり過ごしても犠牲の代償までなかったことに出来る訳がなく、ツケは必ず回ってくる。そのツケが子供に回ってきたりすると悔やんでも悔やみきれない事態になる。子供の立場にしたら親世代がしっかりしてくれてたら自分等はこんな惨めな想いはせずに済んだ筈だし、親子の関係なんてそんなもんだと心に刷り込まれていく。そんな子が家庭を持って親になっても子供のために犠牲になるのは馬鹿馬鹿しい。最近日本では子供の犠牲にならない親世代が多いよね?

親子の情が育ってないのだもの、家庭が破綻するのも仕方ないだろうな。そんなことが私には想われてならない。気づける人たちだけでも真剣に難局に向かえれば好いのにね。そう思いませんか?中学生にもなって対話もできず、すぐ言い争いになる現状はあなたには他人ごとだろうか?「うちの子に限っては大丈夫」とか云うのがあなたの流儀だというなら、それは蝙蝠の生き方に準じるって書いたとおりです。家庭の体を成さない日本で国の体が成されないのも仕方ないけど、もしかして身から出た錆

今回はここで止めておきますね。


人生論ノート/流儀

幸福と云い、幸福感と云っても自分&世界の関係‥という地点までは私もどうやら辿りついた。自分というのはと言い換えるべきかも知れない。そう感じる私はそう思えるが、だからと云って、あなたに「そう想いなさい」と言う積りはない。「私は幸福だ」と言う人へ「おいおい、調子に乗って好きなこと言うてるやんけ」というフレーズが伊集院光氏の脳裏にモクモク涌きあがる理屈も分る‥つもり。ま、そう言いそうなお人のフレーズは私の脳裏にもモクモク湧きあがるってこと‥です。笑

ともあれ、私には私流儀の世界との係わりかたがあるし、あなた流儀の世界との係わりかたがあなたにはある訳です。それであなた流儀は否定されるべきだろうか?あるいはあなた流儀は肯定されるべきだろうか?いかが?大抵の人は己の流儀を否定されたら己の人格を全否定されたように受取るみたい。そのような人は反論されると怒って猛然と攻撃してくる。猛然と怒らなくても攻撃してくる人はなんて多いことだろう。そのような人は他者の流儀を否定していることを自覚したほうがいいな。

己の流儀がお好みなのは構わない。猫星園芸に独裁的に係わっている私だが、それは私の世界の出来事であれば誰も口を挟まない。園芸でなく社会への係わりかたの場合は民主的に係わろうとするのが私の流儀。社会への係わりかたは私の世界の出来事として収められるものでなく、ゆえに独裁的に係るべきでないと思う。それならどう対処すべきなの?独裁的に係わりたい人の流儀を否定すべきだろうか?それとも肯定すべきだろうか?否定・肯定の捉え方をすると敵・味方の関係にならないか?

一つの社会、一つの時代をともに生き、ともに支えている関係なのに日本人はどうして敵・味方に別れて攻撃し合うの?そんなことを考え・練りながら文を作っているところで面白い番組が私の目に飛込んできた。nhk「いじめをノックアウト」って番組。最後しか観なくてネット検索。仲よく話合う場の筈なのに、敵・味方・傍観者に別れて攻撃し合っている中学生たち。変だよね?楽しい話がどうして罵り合いになるの?子供たちにはモデルがいるんだよ!? この場合は最悪のモデルだよね?

子供はモデルを見よう見まねする。いわゆる「真似ぶ」ことで先人の知識・知恵を身に着けるのが子どもだ。最悪のモデルを真似た結果、敵・味方に別れて喧嘩してるんだ。このトンデモナイ駄目なモデルにあなたは覚えありませんか?あなたが敵・味方に別れたがるのだって最悪のモデルを真似た結果だと思う。いやいや、俺は傍観者だって言いますか?ハッキリ言うけど敵・味方に別れて戦った者同士は意思の疎通を図れる可能性がある。ところが傍観者は蝙蝠の末路と重なるのでないか?

だから「おいおい、調子に乗って好きなこと言うてるやんけ」で終わってるだけなら、そんなあなたの向かう先はお先真っ暗でないかな?実践の哲学は己が傍観者たるを受入れない。だからといって敵・味方に別れての罵り合いに加わるべきでもなかろ?私はこう生きるって示す言動が伴うのでなければ実践の哲学ってフレーズに似合わないのでなかろうか?全体主義にも個人主義にも信奉者は居る訳で、その信奉者の流儀を否定し合うよりも、主義思想の是非を皆で語り合う社会が私は好いな。



人生論ノート/幸福の条件

幸福と幸福感は異なるとする岸見教授の考えを支持はしたい私なのです。その私の目に平均的日本人は幸福感のなかに居たいように見える。それよりなにより幸福感のなかに居るのが大好きな私なのです。それなら幸福と幸福感は異なるにしても別々のモノと捉えるのは間違いに思える。すなわち、幸福は私に寄せ来る(波のような)現象であり、幸福感は(その波の)現象に対する私の評価に違いない。

寄せ来る波を嬉しく想うときの私は幸福感を味わって、厭と思うときの私は不幸感を味わっている。寄せ来る波が幸福をもたらしたと捉えるのも不幸をもたらしたと捉えるのも、何れにしても私の感覚。寄せ来る波自体は一つだがそれは幸いとも不幸とも言える。そもそも普遍の幸福というものは無いのでないか?だから幸せの青い鳥を世界中に探し求めても無駄なこと。幸せは私の中にあるよね!?

これは5~6歳の私の体験。みんな親同伴で遠足に行って、私には姉が付き添ってくれてた懐かしい海辺の想い出。波打ち際で遊んでて、突然大きな声が「海から上がれ」って聞こえてきて、一瞬のことで私の足は止まってしまった。みるみる盛り上がった海面は私の太ももへ達して、私は恐怖で泣き出した。そこへ飛込んできた姉が私の肩を抱いて海に引込まれないように一緒に立ってくれてた。

私を誰かが迎えにきたと感じて、そうやって二人で海をジィッと見つめてた。弟をしっかり護ってくれてる姉に安心したように波は静かに引いていった。そのように世界も姉も家族も私をいつも大切に想ってくれてるし、そのお陰で私の今があるとも思う。世界はいつも私に幸せをもたらしてくれていて、人が恐れる大波にも私は幸福感を味わえる。もちろん私も自然は畏れていますよ。^^

即ち、幸福って何だろか?この世界に幸福感を貰っているだけの私は幸福でないかも知れないけれど、私に善くしてくれる世界(姉・親・海など)は幸福だろうな。そんなこと思って私も『お早う・ありがとう・御みやげだよ』なんて家族に声掛けしてると、その私に笑顔を返す人たちの反応を嬉しく感じながら、声かけて好かったと想う私‥どうしようもないほど幸福だと思えてくる。

幸福と幸福感と‥似てて非なる感じ‥なのかなあ!? 世界を人間を信じられる私は幸福を手にしてるし、砂糖菓子も嬉しいし、塩味も嬉しいし、苦みも嬉しいし、歯が立たなかったモノも今は嬉しく想えてるし、何もかもが私のために存在してくれてるって知れば、私って果報者だろう!? ん?ん?あほう者って言ったの?笑。世界の全ては私のためにあるのだもの。追い風も向かい風も即ち私の味方。

それにしても、味わわなきゃ分からない‥ですもんねえ。(*´ω`*)


人生論ノート/幸福論

三木清の「人生論ノート」は多くの若者たちから支持されたと講師の岸見一郎教授は「100分de名著」の講義で述べておられる。岸見氏が受けた印象は確かにそうだろうけど、それならそれらの若者たちはどこへ行ったのだろうと私は考える。一過性の支持?熱病のごときファン心理?燃えやすく冷めやすい若者心理がファッションに乗り、さらに新たなファッションに乗換えて騒ぎ狂奔することと通じないか‥三木に限らずく生きようと真摯に立向かい・問いかける哲学の姿勢は私にも分る気がする。

それで「私の哲学の位置づけ」を述べておくのが好さそう‥そうは云っても読み方はその人その人の思想(=)に染って色いろに分れる。私は哲学人格を観るが、あなたはいかが?哲学に人格を観るか?それとも哲学は僕(しもべ)か?あるいは哲学は主人か? 私に盲従する哲学を私は好きになれないが、哲学に盲従したくもない私。そんな私は哲学に人格をみることになる。私と私の哲学は別人格であれば私たちは互いにぶつかり合い、凌ぎあい、研きあう‥対等でベターな関係‥これで幸せを得られそう。

対等でベターな関係を親友とも言える‥だろ?私を軽視する言動は許せる私だが、私の親友を軽視する者を私は好きになれない。それなら私の親友たる私の哲学に対して無礼な態度はどういうものか?私を好きな親友は私にぶつかってきて葛藤する、凌ぎあい研きあう関係が好いと述べたようにそんな態度を好きな私であっても、あなたにまでそれを要求しても仕方なかろ?あなたの人格、あなたの哲学はあなたの世界のルールであれば、異なる世界との共鳴を求めることで無理が生じると云うべきか。

岸見一郎教授は「人生が変わらなければ意味がない哲学」と述べておられる。このフレーズのままだと私の哲学が納得しない‥なにせ八方美人の日本語は誰にも受けるから金儲けには向いてるかも知れないが、「おいおい、お前は誰の肩を持ってるんだ!?」ってなったときはイソップ寓話「鳥と獣と蝙蝠」の蝙蝠の二の舞にならないか?クメールルージュが知識人たちを一掃したのだって蝙蝠と想ったかも知れないじゃないか?三木清が終戦の翌月に殺された理由までは勿論私に分らないことです。

私は人間大好きで人間を殺そうなどと思わない。だけど私の感性や私の哲学を誰もが受入れてくれる訳でなく、それよりも多数決で殺すのは止むを得ないという思想(哲学)の方が幅を利かせる私たちの世界のようです。蝙蝠には蝙蝠の都合があっただろうし、それをも私は受入れるが、だからと云ってそれは私の望むところではない。「人生が変わらなければ意味がない哲学」はクメールルージュ観を認めるって意味にもとれるところが私には恐ろしく思われる。私はやっぱり凌ぎあい研きあう哲学が好い。

あなたはまだ「八方美人の哲学がいい」と証明できていないのでなかろうか?幸福に繋がる哲学とは果たしてドチラだろうか?そんなことが私には想われてならない。



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