詩(short poems)


詠むの苦手だけど読みたい私は‥詩人・猫守( ̄▽ ̄;)

詩への私の想いを載せます。
人が詠んだ俳句・一行詩・短詩に想ったことも書きます。
有季・無季の一行詩や、数行のポエムも詠みたいと‥想っています。

人生論ノート/哲学

岸見一郎教授の講義は26日(月)が最終回だったようだ。三木清の「人生論ノート」を読んだことがない私には岸見教授からの情報が凡て。合計60分間の講義で三木の人となりを把握することは私には出来なかった。と云うよりも「人生論ノート」を通して岸見一郎教授の哲学が述べられたと私は理解する。三木の哲学を岸見一郎氏がどう理解したか?三木は正しかったか?それとも誤まったか?そういったことは私に伝わってこなかった。哲学は方程式だと私は理解する。方程式からは解(かい)が齎される。

こう捉えるとき、三木清あるいは岸見教授が科学をやっている所までは私にも分かる。科学者や唯物論者は科学信仰に陥りやすいかも知れない。例えば科学者キュリー夫人はラジウムを神のように崇めて人命よりも大事にしたようだし、マルクスは唯物至上主義の立場から人間の心を不純物と見なしたのでないか?それで科学と方程式はどう違うか?科学と方程式を同レベルと見なすとトンデモナイ過ちを犯しそうだ。この二つは立ち位置に寄っては似て見えるも、大きく異なることを哲学は私に教える。

このように私が述べるのはに私は評価しているのです。科学は評価しない。哲学は評価する。科学は盲信しても、哲学は確信を重視する。科学は発見・発明を目標として、哲学は人間の尊厳を目的とする。(極論かも知れないが)私は哲学(者)の立場から世界を俯瞰しようとし、科学(者)は五感に映る世界に一喜一憂する。方程式が完全でないのは言うまでもない。どの方程式を使うかで異なる解へ導かれる。即ち哲学は独善を恐れる。科学信仰は独善的であれば、人々をミスリードする危険が増える。

こう述べてきて、科学信仰に陥っている現代人が余りに多いことを思う。列挙すると、算数科学あり、商売科学あり、事業科学あり、政治力学科学あり、医科学あり、軍事科学あり、道徳科学あり、宗教科学あり‥etc。あなたも、あなたも、あなたも、何らかの科学信仰に陥っていないだろうか?釈尊は「唯我独尊」と説いて、私たちが何らかの科学信仰に堕すのを憂慮して警告したのでないかな?そのようなことを三木の「人生論ノート」に思った私なのです。独善は駄目、ゆえに評価は大事となる。

評価を恐れる者は他人の口を閉ざそうとする。私の発言を邪魔したい、あなたの口を黙らせたい、三木清をモノ言えぬようにしてしまいたい、、。そう思う人でも、もちろん、バラエティ番組や馬鹿ッ話の邪魔をしようとしない。己にとって目障りな発言だけを邪魔する。あなたの伴侶、あなたの親、あなたの上司から、あなたの口は自由ですか?私は勿論、自由に評価したいが、そのためにも「100分de名著」の評価を前向き・積極的にしている現実がある。哲学者は想いを自由に発言する。いかが?

三木清の想いは知らないが、岸見一郎教授の想いは知らないが、今回の講義で感じた所を私は私なりに述べている。お二方に感じたところを私の哲学が評価して返しているところです。実践の哲学を意識するようになったのは私が30歳のころでした。実践の哲学のおかげで今の私があるのだと思っています。「人生論ノート」はココで止めておきます。また機会があれば書かせていただきます。ありがとうございました。🌱


(余談的に述べておきます‥)
宮澤賢治を誹謗中傷する者たちの先頭で旗振り役を務めた入沢康夫氏が先月10月15日に亡くなっておられる。氏の誹謗中傷の目的が何なのか私は知らないが、「評価したいのであれば(入沢が)書いた書籍を買って読みなさい」とする論調に氏の人間性をみた気がしていた。

私の評価はそういうモノではない。当人が公開した文言に対する私の評価を重要とするゆえに、評価されたくなくてハードルを高くするのは氏の勝手だが、代価を払わなければ読めない仕掛けなど私は不要とする。評価する人がいなければ誹謗中傷する者たちには御あつらえだが。

誹謗中傷する者たちを喜ばせてどうするんだ‥と私は思う。誹謗中傷の意味をここで述べておきたい。誹謗中傷が書かれた文言を錦の御旗とする言動は既に誹謗中傷に違いない。つまり、入沢氏の誹謗中傷の文言を並べただけの行為はツイッターで流行っている拡散と何ら変らない。

もっといえば、拡散した罪を追及された者が「(入沢の)著書を読んでくれ」と言い逃れして済むだろうか?「拡散したのはお前だろ?」となって、追及の手が強まることはあっても、決して弱まることはない。誹謗中傷する者たちは入沢康夫氏の後ろへ隠れてコソコソする卑劣さか?

お分りか?入沢氏の言動はその者らの卑劣振りを受入れてきたことは明白なのです。ま、商いであればその仕掛けは儲けに結びつくかも知れない。その意味で入沢氏は商い科学に通じていたと言えるかも知れないが、それは科学の悪用であれば、哲学の立場は科学の悪用を認めない。

入沢氏の「ヒデリ論」は原文「ヒドリ」の宮澤賢治を誹謗中傷しているのみならず、誹謗中傷を拡散する者たちの罪作りの旗振り役となっている。罪に罪を重ねる現状を見逃してはなるまい。お前は何をしているのかと取り調べられて「私は無関係です」で済むか?いかが?

今回、「人生論ノート」と「ヒデリ論」の捉えかたで似たようなモノを感じたので述べておきます。提婆の罪を証してこそ提婆は成仏できる。そうであれば、この私の文言は入沢氏への最の餞(はなむけ)となるのでないか? とは何だろね?あなたはお分りになりますか? 拝。


入沢康夫氏の原文「ヒデリ論」は「ヒドリ論争 / 入澤康夫氏を破す」に載せております。


人生論ノート/異端

世界の構成は「あなたと私」「you & i」から成ると私は理解する。これは言い換えると「主体と客体」「自己と社会」と言っていいし、「水と魚」というのも仏説にある。この魚は私( i )と受取っている。だから水はあなた・you・客体・社会だ。水が害悪ならば私は安らかでいられない。世界即ち私の味方、なのに世界を憎んだり敵視する私の居場所は安寧(あんねい)で有り得ない。私が退屈せずに済むのは客体が私をビックリさせるからであり、私はこのような世界を信じていたいのです。

私はもちろん完璧でない。だけど世界の一部としての私は完璧の構成員に違いない。なぜなら私が加わることで世界は完璧なのだし、私は不完全であっても完璧な世界の構成員なのです。あなたと私は異端の関係かも知れないが、あなたも私も異端のままで、共々に完璧な世界を構成する善い関係。息を吸ったら吐きだすように、私も生きてる時は吸ったり吐いたり、あなたも食べたり出したり、それぞれに起きたり寝たり、憎んだり憎まれたり、怒ったり怒られたり、罵ったり罵られたりの現世。

そうやってプラス・マイナス、正負の帳尻を合わせる仕様になっている世界らしい。だから世界はドッキリやら緊張やら不安・苦労・悦び・幸せなどもドッサリ味わえるのですね。登った山からは必ず下りてくるように、膨らんで膨らんで膨らみきったら、パンクするなり萎むなり銀河系宇宙もそうやって現在は膨らんでいく最中のようです。この世界の中で魚も鳥も獣も人も生きてることを堪能したら好いのにね。失敗を愉しみ、悩みを愉しみ、扱けたり・怪我したり・病気さえも愉しみたい私。

世界は完璧なんだもの、世界の向かう先は決っているのだもの、そのなかで私は転んだり腹を減らしたりを面白がって時間を過ごしていたいと思う。異端を見つけて厭な時を過ごすのは構わないが、私は異端者の成功・不成功に紛動されず・引きずられず私流儀の悦びを見つけて世界の旅を続けたい。今世では思いっきり走りまわれない分は次の機会に愉しめば好いのであって、今世では今世での愉しみを堪能しなくっちゃ勿体ないのでなかろうか‥なんて想われてならないが、あなたは如何だろうか?

今回は私流儀の世界の愉しみかたを述べてみました。誰かと同じになりたいって想いも勿論好いと思う。好きな異性と同じ暮らしをしたいってのも好い、だけど相手にも相手流儀の幸せ感はある訳だし、私とあなたは同じでないように、他者を自分に合わさせようとすると無理が生じるよね。あなたが誰かの言い成りになりたくないように、誰かもあなたの言い成りになりたくないよね。誰も彼もみんな異端者なんだもの。一人で遊ぶのが厭なときは仲間に入れて貰える努力は必要だ。私はそう思う。

そういうことで他者の流儀を誹謗すべきでないと私は思うのですよ。人に構ってもらう権利なんてものは誰にもない。むずかしいですか?


人生論ノート/主体

勝って兜の緒を締めよという格言がある。ちょっと油断しても命を奪われる戦国時代には大いに意味があった言葉だし、言わんとするところは分るけど、今はもっと大事にすべき言葉がある気がする。そういうことで私はあまり好きになれない。太平洋戦争へ突入して日本は言論弾圧がますます厳しくなったという岸見一郎教授の見解は尤もとして、それは戦国時代に戻ることを受け入れるって意味?戦国時代へ戻らないようにしようって意味?世界が戦国時代だからって、日本も戦国時代へ戻るべきなのか?

太平洋戦争当時の日本の政治は厳しいカジ取りを迫られていた。その局面の打開策として日本の政治は戦国時代に戻ることを可とした。謀略あり、闇討ちあり、下剋上あり‥戦国時代に日本国民は一戦一戦の経過を聴きながら嬉々として過ごした。太平洋戦争当時の日本がマサにそうだったよ。勝ってると思うときはイケイケで、戦況が危うくなったら軍部や政治を誹謗しだす。そんな日本人だったろ?美味いモノを頬張ってればご満悦、石ころが混じってたら憤慨する‥お客様なら怒っても仕方ない‥。

これがお客様でなくて従業員でも仕方ないと私は思う。仮に病院の受付の態度が劣悪でも「ああ、この子は奴隷だ」って受けとめる。自由人の私が奴隷を怒っても仕方ないだろ?主人に隷従するしかない受付を怒鳴りつける意味が自由人にあるだろうか?飼い犬と喧嘩して口汚く罵ってあなたはご満悦になれますか?もしそうならあなたは飼い犬と同格だよね?私は奴隷と同格に堕ちるのは厭なんです。戦国時代であれば従業員は全てトップに隷従しているのだから、責任をとるべきはトップでしょう?

自由人の私は責任をとる人です。奴隷は結果に振回されて嘆いたり好い気になったりしてたら好いのです。飼い犬も奴隷も飼い主の機嫌が好ければオヤツを貰える。飼い主が不遇のときに不平をぶうぶう垂らす飼い犬や奴隷をあなただって飼いたくないでしょう?そんな不埒な犬どもは‥あなたは保健所に引き渡さないか?だから、お客のままが好いか?自由人が好いか?これは客体が好いか?主体が好いかと言い直してもいい。こんなことを想う私は美しい世界(客体)を愛する自由人。あなたはいかが?


人生論ノート/難局

己の流儀が受入れられない局面にあって三木清はどう対処すべきだったのか?私ならどう対処するか?あなたなら折れるか?それとも突っぱねるか?理屈も綺麗ごとも通じない難局に立たされた人に対して傍からオイソレと口出しできるものではないだろう?人生論ノートの意味は結局そういうことだろう?大きな犠牲を払ってその局面は乗越えても、その大きな犠牲の代償をどう払えば好いか?仮にだが‥反逆者として死ぬべきか?それとも犯罪者として死ぬべきか?この二つに一つを選ぶ難局‥どう越える?

私に「あなたが要らんこと言ったのじゃない?」と声を掛けた人は大勢いた。物言えば唇寒し秋の風(芭蕉)ってフレーズがあるよね。芭蕉の真意は別にして、このフレーズは一人歩きしているみたい。黙ってたら好いって思いたい日本人が殆んどじゃないかな。だから私に声を掛けた人たちは私の身を案じて優しい気持ちからアドバイスしてくれた訳で、巻込まれないでその場をやり過ごす対処法の一つではあると思う。見ていても見てない振りして通りすぎる人の多いこと。そんなことはないですか?

その場のことは無かったことにしてやり過ごしても犠牲の代償までなかったことに出来る訳がなく、ツケは必ず回ってくる。そのツケが子供に回ってきたりすると悔やんでも悔やみきれない事態になる。子供の立場にしたら親世代がしっかりしてくれてたら自分等はこんな惨めな想いはせずに済んだ筈だし、親子の関係なんてそんなもんだと心に刷り込まれていく。そんな子が家庭を持って親になっても子供のために犠牲になるのは馬鹿馬鹿しい。最近日本では子供の犠牲にならない親世代が多いよね?

親子の情が育ってないのだもの、家庭が破綻するのも仕方ないだろうな。そんなことが私には想われてならない。気づける人たちだけでも真剣に難局に向かえれば好いのにね。そう思いませんか?中学生にもなって対話もできず、すぐ言い争いになる現状はあなたには他人ごとだろうか?「うちの子に限っては大丈夫」とか云うのがあなたの流儀だというなら、それは蝙蝠の生き方に準じるって書いたとおりです。家庭の体を成さない日本で国の体が成されないのも仕方ないけど、もしかして身から出た錆

今回はここで止めておきますね。


人生論ノート/流儀

幸福と云い、幸福感と云っても自分&世界の関係‥という地点までは私もどうやら辿りついた。自分というのはと言い換えるべきかも知れない。そう感じる私はそう思えるが、だからと云って、あなたに「そう想いなさい」と言う積りはない。「私は幸福だ」と言う人へ「おいおい、調子に乗って好きなこと言うてるやんけ」というフレーズが伊集院光氏の脳裏にモクモク涌きあがる理屈も分る‥つもり。ま、そう言いそうなお人のフレーズは私の脳裏にもモクモク湧きあがるってこと‥です。笑

ともあれ、私には私流儀の世界との係わりかたがあるし、あなた流儀の世界との係わりかたがあなたにはある訳です。それであなた流儀は否定されるべきだろうか?あるいはあなた流儀は肯定されるべきだろうか?いかが?大抵の人は己の流儀を否定されたら己の人格を全否定されたように受取るみたい。そのような人は反論されると怒って猛然と攻撃してくる。猛然と怒らなくても攻撃してくる人はなんて多いことだろう。そのような人は他者の流儀を否定していることを自覚したほうがいいな。

己の流儀がお好みなのは構わない。猫星園芸に独裁的に係わっている私だが、それは私の世界の出来事であれば誰も口を挟まない。園芸でなく社会への係わりかたの場合は民主的に係わろうとするのが私の流儀。社会への係わりかたは私の世界の出来事として収められるものでなく、ゆえに独裁的に係るべきでないと思う。それならどう対処すべきなの?独裁的に係わりたい人の流儀を否定すべきだろうか?それとも肯定すべきだろうか?否定・肯定の捉え方をすると敵・味方の関係にならないか?

一つの社会、一つの時代をともに生き、ともに支えている関係なのに日本人はどうして敵・味方に別れて攻撃し合うの?そんなことを考え・練りながら文を作っているところで面白い番組が私の目に飛込んできた。nhk「いじめをノックアウト」って番組。最後しか観なくてネット検索。仲よく話合う場の筈なのに、敵・味方・傍観者に別れて攻撃し合っている中学生たち。変だよね?楽しい話がどうして罵り合いになるの?子供たちにはモデルがいるんだよ!? この場合は最悪のモデルだよね?

子供はモデルを見よう見まねする。いわゆる「真似ぶ」ことで先人の知識・知恵を身に着けるのが子どもだ。最悪のモデルを真似た結果、敵・味方に別れて喧嘩してるんだ。このトンデモナイ駄目なモデルにあなたは覚えありませんか?あなたが敵・味方に別れたがるのだって最悪のモデルを真似た結果だと思う。いやいや、俺は傍観者だって言いますか?ハッキリ言うけど敵・味方に別れて戦った者同士は意思の疎通を図れる可能性がある。ところが傍観者は蝙蝠の末路と重なるのでないか?

だから「おいおい、調子に乗って好きなこと言うてるやんけ」で終わってるだけなら、そんなあなたの向かう先はお先真っ暗でないかな?実践の哲学は己が傍観者たるを受入れない。だからといって敵・味方に別れての罵り合いに加わるべきでもなかろ?私はこう生きるって示す言動が伴うのでなければ実践の哲学ってフレーズに似合わないのでなかろうか?全体主義にも個人主義にも信奉者は居る訳で、その信奉者の流儀を否定し合うよりも、主義思想の是非を皆で語り合う社会が私は好いな。



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